八正道は八聖道とも呼ばれます。
人がどのようなことに意識を向けて生きるべきかについて8つのことを伝えるものです。
四諦という仏教における真理の最後にこの世の『苦』に対してどう向き合えばいいのかの説明としてこの八正道があります。
お釈迦さまは人間がこの世に満ちている『苦』に惑わされたり、苦しまないためにはどうすればいいのかを説いています。
『苦』は苦しみそのものという意味ではありません。
私たちを取り巻く様々な出来事は全て『苦』なのです。
八正道の正の字は「宇宙の真理に即した」という意味を持っています。
八正道の定義するものは以下のようになっています。
戒 | 正語 |
生業 | |
正命 | |
定 | 正精進 |
正念 | |
正定 | |
慧 | 正見 |
正思惟 |
戒とは、守るべきもの
定とは、自分の中で常に定めるべきもの
慧とは、この世の法則に従って養うべきもの
の事柄を指します。8つとは言っても、その性質が3つに分かれていると思えばいいと思います。
正語(しょうご)
言葉を慎むことです。
神道的な思想でも言霊と言われますが、使う言葉はとても重要だと捉えられています。
仏教の中でも真言宗においてお唱えする内容に『十善戒』(じゅうぜんかい)というのがあります。
「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」と、自分たちの戒め(いましめ)の意味と、仏様に誓うためにお唱えします。
その中の『不妄語、不綺語、不悪口、不両舌』というのが、言葉に関する戒めの内容になります。
・不妄語=嘘をつかない
・不綺語=無意味な話をしない
・不悪口=乱暴なことを言わない
・不両舌=矛盾したことを言わない
言霊としてそれが本当になるというよりは、自分が言った言葉は、言った自分が一番聞いています。
言葉を言った人からすれば「それはあの人に対して言ったんだ」と思うかもしれませんが、人間の頭も心もそれが誰に対して言ったのであるかは区別ができません。
だから、普段から言葉が悪いということは、自分をいじめているのと同じなのです。
正業(しょうごう)
これも『十善戒』にある内容です。
『不殺生、不偸盗、不邪淫』を指します。
・不殺生=むやみに生き物を殺さない
・不偸盗=盗みを働かない
・不邪淫=むやみな性行為をしない
特に不邪淫の厳しさの度合いは、時代によってとらえ方が全く違ったり、宗派により違いがあります。
特に僧侶の場合は修行中に気が散らないように性行為を禁止していますが、修行中はともかく、今現代においては比較的厳しい修行が必要な宗派にいる僧侶でも妻帯するのは珍しくありません。
生き物を無闇に殺すのは、もちろん他の命あるものの権利を私利私欲で奪うことを許せば、殺人さえ罪悪感を感じることがなくなってしまってもおかしくありません。
盗みも他者のものを奪うという意味では殺人と同じことです。盗みが横行する中では社会の中で秩序を守る感覚は失われてしまいます。日本は比較的そういうことが少ない社会ですが、盗みが頻繁に起こる地域では、治安が悪くなっているのがわかりますね。
無闇な性行為を禁じるのは、やはり性行為が肉体的な快楽として大きいことを理解しているからでしょう。セックス依存になっている人もいるくらい、ドラッグ的な要素があります。
日々行動し怠惰にならずに生きるためには、不必要に性行為をしないことは大事だと言えるでしょう。
正命(しょうみょう)
与えられた命に対して生活を正し、精一杯生きることです。
衣食住を整え、欲を貪らず、精神的にも肉体的にも整えられた生活をして命をつなげることです。
あるべき姿として、私たちがこの人生を疎かにすることなくまっとうに生きることを守りなさいということが戒というのは、本当に仏教とはこの人生の手本とするべきところです。
この人生を精一杯生きる気持ちがなければ、行動もせず怠惰で、なにも考えずに生きてもいいことになってしまいます。自分の命を捨てないこともこの正命に含まれています。
正精進(しょうしょうじん)
四正勤(ししょうごん)とも言います。
これは定の項目なので、常にやるべきことです。
- 『既に起こった不善を断つ』
- 『未だ起こらない不善を起こさないようにする』
- 『既に起こった善を増長させる』
- 『未だ起こらない善を生み出す』
という4つのことを実践することです。
何が善で何がそうでないのかは、仏教も伝えていますし、自分の感情が教えてくれます。
私たちが暗い気持ちになるものは不善です。
私たちが活き活きしたり、これからの未来を心待ちにできることは善です。
自分と他者にとって良いことも善です。
過去の失敗、悪かった行い、辛かった出来事などを断って、これから同じようなことが起こらないように行いに気をつけて、今まで続けている良いことは、これからも維持しさらに良くしていくことです。
正念(しょうねん)
「ここが正念場」と言う時の正念です。
常に邪念を払い、仏道を求める心を保つことを意味します。
定の項目なので、常に正念の状態を維持することが大事です。
その正念を会得(えとく)するために、
四念処(しねんじょ)と言われる悟りのための4種の観想法を行うこともあります。
『観想』とは、1点に集中し、その姿や性質を深く感じることを言いますので、瞑想だと思ってください。
四念処とは、
- 身念処(身念住)=身体の存在を観ずること
- 受念処(受念住)=一切の受は苦であると観ずる
- 心念処(心念住)=心の移り変わりを観ずること。
- 法念処(法念住)=すべてのものは因縁によって生じたものであり、実態が無いという事実を観ずること
もう少し噛み砕いて言えば、
体の状態に常に気を配り、
自分の周りに起こる・見聞きするものの一切は自分を惑わせる原因になり得るものだと自覚し、
心が苦に影響を受け移り変わっていくことを感じ、
この心の変化も因果の中にあるということを静観するということです。
例えば失恋したとして、心が苦しいと感じることがあります。
失恋したという出来事である苦があり、心が悲しみや怒りに満たされる感じに移り変わります。
このことは苦に対して、心が反応した因果であると冷静に事実を観察することが4つ目のことです。
普段から心を冷静に保つためにも、この冷静な心の観察を続けていくことが大事です。
正定(しょうじょう)
心の状態が宇宙の真理に即した状態で正しく定まることです。
精神統一がなされることとも言えます。
この八正道の他のすべてのことが定まってきたら、自然に精神がブレず保たれた境地に辿りつきます。
この精神統一の保たれた状態を維持することがこの正定の意味です。
悟りの境地は涅槃寂静と言われますが、この精神統一がなされた状態こそが悟りと言えます。
正見(しょうけん)
『四諦』と解釈すると分かりやすいと思います。
まずは正しくこの宇宙のルールを理解することです。
現実を捻じ曲げたり、頭の中で妄想することなく正しく見ることです。
この世にはたくさんの『苦』となる出来事や、欲望や執着から生まれる『苦』が存在します。
私たちは諸行無常の中にあり、因果応報の理によってこの世が動いていることを理解し、そのままの通りに認識することです。
様々な邪念や罪悪感、自己擁護などの感情によっても間違った見方をしてしまうことがあります。
正思惟(しょうしゆい)
心を落ち着かせ、邪念に惑わされずに物事を考えることです。
人間はものすごく有りもしない妄想をすることもあります。
話が通じない人がいるのは、本人の中に被害妄想や反発心、罪悪感などの様々な感情が邪魔をしているからです。
特に、貪瞋痴に邪魔されずに物事を考えることを指します。
自分の欲のために他人に思いやりの無いことを考えたり、憎しみや怒りに任せて「○○してやろう」と自分の行動を考えたりすることは現実の問題を大きくしたり、自分の身を滅ぼす考え方です。
- 欲望に囚われない考え方=出離思惟(しゅつりしゆい)
- 憎しみに囚われない考え方=無瞋思惟(むしんしゆい)
- 他者を害する気持ちに囚われない考え方=無害思惟(むがいしゆい)
と細かく言われることもあります。
真剣に考えていたとしても、その認識が間違っていたら、正しいことをすることはできないでしょう。
まとめ
八正道が説いていることは、
正しく認識し、行動・言葉・思想を整えて、さらにそれらを磨き上げていくことだと言えます。
仏教用語になっているので分かりにくいように思いますが、シンプルです。
この八正道を知った時から、これに倣って行動し、
その在り方を維持したまま死を迎えることができたら本望でしょう。
この世には苦への誘惑はたくさんありますが、それらを正しく跳ね除けて、精神的に統一された状態で生きることができれば、人生の苦しみというものを感じることはなくなるでしょう。
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