『三法印』(さんほういん)といわれている仏教の言葉があります。
インドにおいて、他の宗教との違いを端的に示したものとも言われています。
しかし、実際にそうなのかは明確にわかっていません。
この三法印を知ることによってブッダの伝えた仏教というものが一体どういう考え方をしているのかが、わかるようになります。
3つの法印とは
3つの信じるべき真理の象徴といえるものです。
印はその通り「しるし」なので、今風にわかりやすくいえばテーマということです。
つまり、仏教には3つの大事なテーマがあります。
「一切有為生法無常等印」いっさいういしょうぶつむじょうとういついん
「一切法無我印」いっさいほうむがいん
「涅槃実法印」ねはんじっほういん
これらを馴染みがあるように言うと
「諸行無常印」しょぎょうむじょういん
「諸法無我印」しょほうむがいん
「涅槃寂静印」ねはんじゃくじょういん
となります。
後者の方が一般的で有名ですね。
仏教ではこの3つの言葉が全体のテーマになっていると考えれば良いと思います。
諸行無常の意味
平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で知っていると思います。
そもそも祇園精舎はインドでお釈迦さまが説法を行った寺である天竺五精舎の1つを意味します。
当時はきっと仏教と絡めて平家の栄華盛衰を表したパンチの利いた物語の始まりだったんでしょう。
諸行無常とは「ものごとは、常に移ろい変わっていくものであり、常に同じである事はない」という意味です。
同じまま変わらないものは一つもないということです。
永遠は存在しないということでもあります。
少女漫画やドラマなどで存在する「すべてがこのまま止まってしまえばいい」というようなセリフや幻想は、まさしく人間の煩悩そのものなのです。
人間は良いことがあるとすべて止まって欲しいという欲望に駆られますが、悪いことがあると早く変化して欲しいと思います。そういう人間の恣意的(しいてき)な欲望に関係なく、何事も変化しています。
石でさえも風化したり、水によって石が凹んだりしているように僅かでも必ず変化し、その長年存在する石に人間は長い時間をかけて信仰を持ったり、崇拝の対象にしたり、趣を感じてみたり、石そのものを取り巻く周りの存在も変化していること全てが変化なのです。
諸法無我の意味
「すべての物事には、我というものは存在しない」という真理です。
「私という存在とは何か?」という哲学的な考え方になりそうですね。
なので、私というものには実態がないということを説明しましょう。
私を仮に魂であると考えます。
その魂が宿っているのは肉体ですが、その肉体は親の遺伝子を引き継いでできたものです。
肉体を構成する細胞や骨は生まれた時の肉体と外部からの栄養で維持しているものです。
私という人間はそのままで認識されることがありません。名前を持つことで認識されることができます。
私というものを表現するには言葉を使います。でも言葉は先祖が作った借り物です。
私を自己紹介する時、与えられた名前と私が所属していた場所や組織を話しています。
つまり、私が私と認識しているものは、自分を取り囲む情報の集まりなのです。
肉体には痛みや意識がありますから「これが私だ」と認識しやすいと思います。
でも、肉体は自分のものでありながら、自分ではないものによって維持されていて、自分が体の全てをコントロールすることはできません。自分でありながら、全てが自分であるとも言い切れないのです。
量子力学の分野では、超ひも理論として説明されている「有るし、無い」という、有ると無いの間が存在することについて説明されています。
私が「私である」と認識している理由は、過去の記憶があるからです。
もし記憶喪失になった場合、私たちはきっと「私」を今までと同じように認識することができなくなります。
これらの「私」の周りに存在する情報を縁と言い、縁起によって自分というものを構成しているのです。
私たち自身も因果の中の1つの結果なのです。
涅槃寂静の意味
涅槃は、仏教において最高の目的であり、解脱や苦の終わりを指す言葉で、
寂静は、内なる平穏や心の静けさを表します。
「煩悩から解放され、苦しみや執着から離れた悟りの境地で、心の平穏を得た状態」という意味です。
これは真理というよりも、最終目標を意味します。
仏教の目指すところは、
何にも惑わされることのない整った自分を最終目標としているという表明なのです。
例えば、日本人は不安になりやすい遺伝子を持っていると現在の研究から判明しています。
不安を感じる時は、逃げたくなったり、辞めてしまいたくなったり、穴があったら入りたい気持ちになりますよね。
そういうことがたまに起こる程度なのであれば、気にすることはないかもしれませんが、毎日不安を感じているとただの苦痛です。
苦痛は私たちの心のあり方そのものなのです。
補足・余談
三法印は四法印と言われることもあります。
その場合「一切皆苦」(いっさいかいく)というものが加わります。
全てのものは苦であるという意味です。
ただこれは真理と言うべきかは、わからないと思います。
なぜなら涅槃寂静の境地を得るためには、苦を苦であると見做さないようになることが必要だと思うからです。
感情は度が過ぎたり、反応に任せて感情に振り回されると苦にしかなりません。
でも、必ず苦なのではなく、最終的には悟り、その苦が苦とみなす必要がなくなるところへ到達することになります。
日本で普及している大乗仏教と言われるものの中では四法印が一般的なようですが、何を信じて見なすかはあなた自身にお任せします。
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